恥ずかしい未来
映画の場合、ユートピア映画というのは例外なくディストピアものの一変種であって、どの映画でも最終的な落としどころというのは
「結局のところ、ユートピアは理想郷ではありませんでしたとさ」
とゆーことであって、そこにはいろいろなシステムの瑕疵が膿汁を垂れ流しながら潜んでいたりするのが常なわけです。というか、完全なユートピア映画って想像できるか?皆がすごく満たされまくって、何の問題もないとしたら、そこには暴力も闘争も葛藤もないわけで、要するに映画になんないじゃん!無理矢理つくったとしてもだな、どう考えたってなんか新興宗教の入門ビデオみてえなもんしか出来んだろ!まあ単純にそういうことなんですけど。
完全に暴力のなくなった世界を描いた珍品「デモリションマン」の落としどころは、「やっぱやりすぎはよくないよね」ということで、暴力を考えることすらありえない(しかもそれが市民の普通の精神状態とされている)わけで、この世界に刺激的な表現による気晴らしは存在しません。この映画が変なのは実は管理社会ですらない、ほんもののユートピアにかなり近い社会を描いていることで、その社会に対抗するレジスタンスたちの動機といったら「息が詰まるぜ」ぐらいの感情でしかありません。貧困も監視も不条理な暴力も、この映画の描くユートピアには存在しないからです。余談だけど、いま検索したら、デモリションマンって馬もユートピアって馬もいるのね。競馬関係が大量に引っかかってしまいました。
大戦後の廃墟に出現した理想郷オリュンポスを描いた「アップルシード」の落としどころは、劇中で登場人物が直接に語っている。「理想郷は理想人の集合によってしか存在し得ない」。つまりいろいろな意味で人間ってだめでっしゃろ、というものすごいペシミズムに彩られた物語なのだけれど、映画ではこの面白い題材をものすごい単純化して、しかも最後ほうりっぱなしなのをあたかも希望があるように見せかける(ほうりっぱはぜんぜん悪くない。問題は、それを認めずに体裁を取り繕ってエンディングに突入する白々しさである)という最低の詐術を用いたグダグダな代物になってしまったのだけれど。
さて、ユートピア映画の段取り、というのは
ユートピアのユートピア性を描く(すばらしー場所だよ!)→そこに潜む瑕疵が顕在化し、主人公をのっぴきならない状態に追い込む(ユートピアのひっくり返し・ディストピアとして顕在化する)→革命&崩壊
という一連の流れを踏む。一見、消費単位として生活する分には物質的に満たされながら、実はRFIDと監視カメラとバイオメトリクスのネットワークに覆われた、脱権力型の管理が浸透しつつある現代社会と、「一見ユートピア・実はディストピア」という物語ジャンルは近親性があり、扱い方しだいでは非常に現代的な物語になりうるのだけれど(そういう意味で、マトリックス・リローデッド」はそうした現代的な管理のあり方を語った物語ではあった。あれはあくまで個人の「主体性」をそれと気がつかせぬようコントロールするお話であって、ルール・マトリックス(マトリックスよ、統治せよ)という物語ではぜんぜんないのだ)。
さて、この「イーオン・フラックス」の理想郷は、森ビルの建築家と凶悪なゴルフコースが結婚したような外見なのですが、ここで重要なのは、ここに描かれた和風テイストのデザインがダメとかいうことではなく、むしろなぜ和風なのか、という記号の孕む幻想について語ることではないでしょうか。「デモリションマン」とこの映画の「静的な」ユートピアには、日本風の意匠、それも「ブレードランナー」以降の「アジアの混沌」を表彰する方向とは別の、「クリーンで、秩序づけられた」、こう言ってよければ枯山水的にスタビライズした「日本」の意匠が援用されています。
実はこの「和風テイストがダメ」と感じることと、これをオッケーとした制作者達の感性には、同根の文化が隠されています。それは、この「クリーンな未来としての日本」というデザイン指向が、「過去に夢見られた未来」の再生産に他ならないからです。
「未来の再生産」とは、現実に21世紀を迎えてしまい、未来世界を創造することが困難な時代において、作家がとりうる戦略のひとつです。つまり、過去の映画で描かれた未来、いったん「古びた」未来、つまり「過去に夢見られたが、そうはならなかった未来」の姿を、未来を描く手段と言うよりも「ファッションとして」援用する方法です。その極端な例が「スカイキャプテン・ワールド・オブ・トゥモロー」であり、ギブスンの「ガーンズバック連続体」であり、「Casshern」のロシア・アヴァンギャルドの全面展開であるわけです。管理社会批判として機能していたかつてのディストピアのスタイルを、政治的メッセージとは完全に切り離された「スタイル」として再生産したものが「リベリオン」になるわけで、これはかつて夢見られた世界のみならず、「かつて夢見られた悪夢」すら、我々には「クールな意匠」として機能する時代になった、ということを証明しています。
「イーオン・フラックス」のデザインは、「80年代後半〜90年代初頭的な日本」の幻想に彩られています。バブルがはじけ、クルーグマン言うところの「流動性の罠」にハマって身動きがとれなくなる前の、クールな日本の幻想です。これが優れて80年代的な幻想であるために、これを可とするか不可とするかは、実は世代の問題が大きく作用しているようにも思われます。私にとって80年代というのは正視し難い、恥に満ちた文化なのですが、このような作品が現れたということと、「リンダリンダリンダ」のような映画が出現することのあいだには、一見関係ないように見えて、実は密接なリンクが存在します。「イーオン〜」のコスチュームやプロダクション・デザインを可とする制作者の登場は、ある特定の過去の感性の援用が、恥から可へ、カッコよさへ移行しつつあることを指し示しているのかも知れません。
再生産なのですから、この映画のデザインに陳腐さを感じることは、至極当然であると同時に、まったく意味のないことでもあります(だって焼き直しであること自覚している人たちによる焼き直しなのですもの)。実際、この映画の「閉じたユートピア」におけるレジスタンスの発生理由はまったく不明であり、政治的に危なっかしい抑圧が行われているわけでもありません。悪いのは社会でなく、為政者であり、つまるところ個人で、それは本質から言って解決容易な問題に過ぎません。社会の抜き差しならないシステムがあげる軋みが、反体制を支えているわけではないからです。ここにおけるユートピアは、何かを語るための手段ではなく、ファッションとして、「リベリオン」が「過去の管理社会」を援用したのと同じレイヤーにおいてのみ、存在します。
ある映画の「未来」を見る時、それは何を指し示すのか。過去の「未来」の再生産である場合、それは「過去に描かれた未来」というデータベースから、どの未来が援用可能になったか、実存と関係ないファッションとして大衆が消化できるようになったか、を指し示している、と考えるべきでしょう。いまや「新しい未来」とは、多くの場合「使用できる過去の意匠の見極め」と同義である、と言ってしまって差し支えないと思われます。これはまだ恥ずかしいか、これはもう利用可能か、これは充分熟成してクールになったか、そのギリギリのラインを、21世紀において「未来を夢見る者たち」は探っているのです。