さすらいびととして死ぬこと
追放/亡命とは、もっとも悲痛な運命のひとつである。近代以前の時代において追放がとりわけいまわしい刑罰であったのは、それがただ家族や住みなれた場所を離れ、何年もあてもなく放浪することを意味しただけでなく、一種の呪われた者になることを意味したからである。
エドワード・サイード「知識人とは何か」
あなたは、どこで死ぬだろうか。
もちろんそんなこと、わかりっこないという人がほとんどだろう。病院のベッドの上で死ぬかもしれないし、明日、車に轢かれてぼろぞうきんのように死ぬかもしれない。通勤電車が脱線するなどとは誰も思っていないけれど、それは起こってしまったし、いまや、都市という、予測し制御しようとする指向の産物のなかに住んでいたって、死のバリエーションは山ほどある。
だけど、あなたがベッドで死ぬとしたら、そのベッドはどこにあるのだろうか。
車に轢かれるとしたら、どこの道路ではねられるのだろうか。
「宇宙戦争」でスピルバーグは暴力として死を描いた。物理的な現実として、映画的なインパクトとして。それは容赦なく理不尽に襲いくる圧倒的な現実だった。人を等しく襲うものとしての死という暴力だった。多くの人が言っている。スピルバーグの暴力の過剰さ、凄まじさについて。ぼくも「宇宙戦争」のときに書いたし、この「ミュンヘン」でも一応、その容赦ない物理的インパクトとしての暴力はきっちりある。場面は少ないけれど、期待している人はそこらへんはきっちり期待してくれていい。
けれど、そこで「暴力すげー」では「宇宙戦争」と同じ話で終わってしまう。実際、この映画はその先の領域を描いているのだから。
その先ってなんだろうか。最後に映し出される在りし日のWTCを以て、ブッシュ批判をすることだろうか。帝国主義を告発することだろうか。
もちろん、そうであってもいい。けれど、そういうことはラストシーンを見ればわかることだ。そういうのは、いわばプラカードみたいなもので、誰にでもわかるように大きな字で書かれているものだ。多くの人は「そうだろうな」とあらかじめ自分の中にあった同じ結論と同じテーマを再確認するだけだろうし、そうでないひとびとは、抑止力としての暴力を信奉し続けるひとびとは、まったく意見を変えることなく反発するだけだろう。
というわけで、これから書く話は、政治とはあまり関係がない。
イスラエルの選手たちは、ミュンヘンで死んだ。暗殺の目標にされるパレスチナ人たちには、そもそも「祖国」がない。そして、主人公のチームは異国である西ヨーロッパで死んでいく。
この映画は、人の死の物語ではない。人が死ぬ風景についての物語だ。
客死、という言葉がある。異国で死ぬこと。祖国でない見慣れぬ場所で最後を迎えること。周りには家族もなく、愛する人もいない。その死は徹底的に孤独であり、残酷だ。寂しい風景としての客死。今回、この映画を染め上げる色は、その荒涼とした、孤独の色、寂しさの色だ。
ターゲットたちは皆、穏やかな人物たちばかりで、とてもテロリズムを指揮している闘士たちには見えない、というのは確かにそうだ。だが、そんな彼らに接して、彼らは殺人の正当性に苦悩するわけではない。罪の意識に苛まれる訳ではない。彼らイスラエルという国家を守るため、愛国心に燃え、祖国のために戦うことについては一点の疑問も差し挟まない。
問題は、罪の意識がだんだん薄れ、場数を踏むたびに(上がっていく難易度とは裏腹に)ひとごろしが楽しくなっていくことだ。
ひとを殺すことが、ある種の興奮を呼び起こす娯楽であることを、スピルバーグはこの映画で否定しない。原作を読むと、彼らが自分らの犯した殺人に対して、道徳的観点から苦悩することはほとんどないのだけれど、「わたしは正しいのか」という宣伝コピーや、既に見た人の感想から、てっきり彼らの苦悩が道徳的なものだとばかり思っていた自分は、そこらへん、原作とどう折り合いを付けるのかと不思議に思っていた。何のことはない。けっこう原作まんまだ。けっこう創作した場面があると聞いていたし、オリジナルのシークエンスもあるにはあるが、実際見てみると「改変」の割合は「ブラックホーク・ダウン」より少ない。
彼らは、道徳的に苦悩するのではない。ではその殺しに、歯止めをかけるのは何か。
それは、死そのものだ。彼らと、その相手にした者たちが、西欧に描き始めた風景だ。
倒れていく仲間たち。だがそれは、戦場の「にぎやかな」祝祭的な死とは異なる。ある者はひとりホテルの部屋で、ある者は朝まだき川縁のベンチで、ひっそりとさみしく死んでいる。仲間の誰に看取られることもなく。
ひとり、祖国を遠くはなれて。
もちろん、それがスパイという世界、諜報畑の「戦争」の在り方だろう。戦場とは異なる「死」のたたずまいが、そこにはある。この映画に登場する人間は、みな祖国から遠くはなれた風景の中でさみしく死んでいく。
見知らぬ場所で死んでいく人々。見知らぬ場所で殺されるかもしれない自分。報復が報復を呼び、果てしない循環を描き始めた血まみれの螺旋の中で、主人公はその闘争から「降りる」ことを選ぶ。自分のしてきたことを知りたいか、と主人公は母親に訊く。彼女はいいえ、と言い、そしてこういうだろう。しかし、その苦悩も苦痛もこのイスラエルという土地に見合うためのものだった、と。しかし、そんな母の言葉は、主人公の動機を補強することはない。そして、彼は闘争の原因である「祖国」を捨て、さすらいびととなる。
さすらいびとたち。自らの国を持たず、永きにわたりさすらいつづけてきたひとびと。主人公の母親の家族は皆、ホロコーストで「消えた」。この戦いの決断を下したゴルダ・メイアはポグロムでウクライナから追い出された。世界中で苦難をなめ、「祖国」で死ぬことを許されなかった多くの「さみしい」骸たち。そして、彼らがようやく手に入れた祖国のために、いま別の人々が祖国を失い、さすらいびととして日々死んでいく。彼らが祖国を失った以上、すべてのパレスチナ人の死は客死である。
主人公は料理がうまいという設定であり、この映画は食卓のシーンが充実している(「食事」の描写が失われつつある現代映画にあって貴重である)。だが、その食事場面はものすごく恣意的に劇中に配置されている。主人公は、仲間たちと、または「政府、一切の権力に属さない」ヨーロッパの地下情報ネットワークの親玉と、充実した食事を作り、食べる。
しかし、主人公が祖国で母親と、またはニューヨークで妻と、食事をする場面は一切ない(その不在は意図的なもので、ご丁寧に妻が主人公不在のキッチンについて触れる台詞がある)。
主人公は確かにモサドの工作員かもしれない。しかし彼は作戦遂行にあたって形式上モサドを解雇され、「存在しないこと」になっている。そして彼は表向き祖国に戻ることを許されず、生まれた赤ん坊を見るために、祖国にも身分を偽って潜入する。かれは祖国を追い出された者である。所属せざる者たちだけが食卓を囲み、所属する者たちと食事がともにされることはない。
この映画が描き出すのは、そうしたさみしい、孤独な、「客死」の風景だ。主人公はラスト、さすらいびとたちが手に入れた祖国からも離脱して、あらたなさすらいびとたちの系譜に加わる。彼は自分が生まれたイスラエルに戻ることはできない。彼と、彼の家族が死ぬとき、それはアメリカという異国での客死になるだろう。
そのさみしさを、スピルバーグは暴力として描く。
おぼえているだろうか。「プライベート・ライアン」でドイツ兵がアメリカ兵にゆっくりとダガーを突き刺していく場面を。銃撃という「一瞬の死」のインパクトと残酷さにおいてエポックメイキングとなった「シンドラー」ではあるけれど、この「突き刺し」は引き延ばされた死であり、黒沢清は「スペースバンパイア」の「串刺し」の感動に触れたとき、この「ひきのばされた死」には怪奇映画的な趣があると書いていた。ひとが、ゆっくりゆっくり死んでいくこと。もちろん、スピルバーグもそのことを気にしていないわけではなく、「ジョーズ」のときから何度か試してはいるのだが、その極めつけ、とでもいうべき「引き延ばされた死」がこの「ミュンヘン」には登場する。
この映画で、一番嫌な気分を堪能(そう、映画とはこのような嫌な気分を『愉しむ』ためにあるのではないかしら?)できるのは、飛び散る頬肉と歯でもなく、天井にへばりついた腕のかけらでもなく(そういうのは楽しいけれど、いままでのスピルバーグから言ったらまったくの想定範囲内だ)、この、長い長い「死んでいく」場面だろう。ゆっくり死んでいく人間を前にして、一発単位でしか撃てないパイプ銃に手間取って弾込めする主人公のおかしさ。そのおかしみが生み出す残酷とさびしさ。この暗殺が行われたボートハウスという風景もまた、さすらいびとのさみしさを際立たせる。ひとりで、異国で、死んでいくこと。家で死ねないこと。家どころか自分の国で死ねないこと。
「宇宙戦争」が祝祭としての暴力だとしたら、この映画は「さみしさ」としての暴力だ。暴力が行使される風景のさみしさ。ひっそりと、見知らぬ地で行使される暴力の荒涼とした風景。この映画は「所属せざる人々」の死を巡るさみしさを描き出す。
見知らぬ場所で、ひっそりと死ぬこと。
ぼくにとっての「ミュンヘン」は、さまようことについて、そしてさまよいの果てにある客死という風景についての映画だった。