ドミノ

あなたがロマンチストなら、この映画を見るべきだと思う。

ガチャガチャしている?確かに。映像のお遊び?そうかも。目が疲れる?ご愁傷様。しかし、トニーはわきまえている。自分がいかなる物語を語ろうとしているのかを。自分がいかなる結末に向かって物語っているのかを。

トニーの映画について「テーマ」を語ることは、実はちょっと気が引ける。テーマというやつは、大体において映画の「在りよう」とは関係がない。もちろん世代論や文化論(サブカルがからむと、とくにそうだ)から語られるとき、「カイエ」とは別種の作家主義が、「作家という物語」をほとんどのひとは発動させてしまう(ぼくだってそうだ)。トニーはそこからもっとも縁遠い作家だと思われてきた。フィクションとしての作家の「個の物語」を作品に入れ込むような人ではない。物語をビシッと伝える活劇作家であること。それがいま、恐ろしいことにカーペンターと同じような反時代性を帯びてしまっていること、「トップガンの子供たち」であるぼくが、そして同じような世代の(かつての)大ヒットメーカー、トニー・スコットをいま「再発見」しているのも、ハスミンが世界的にトニーを称揚する計画を立てているのも(笑)、そういうことなのだと思う。

けれど、告白しよう。ぼくはこの映画で3回も泣いてしまったのだ。

トニー作品には、実はスピルバーグの「母子家庭」並にわかりやすい同一モチーフが意識して選ばれている。あまりにわかりやすくて言葉も陳腐だから、語られるのもちょっと憚られるのだけれど、その程度のことすらだれも書いてくれないかわいそうな作家だから書いてしまえ。それは父子というモチーフだ。

トップガンからして実は父と子の物語だし、「クリムゾン・タイド」なんか露骨に擬似父子の物語だ。「エネミー・オブ・アメリカ」や「スパイ・ゲーム」は言うに及ばず。そういう意味では「リベンジ」「ザ・ファン」あたりはかなりグロテスクな物語なんだけど。

今回の「ドミノ」の主人公は女性だ(トニー作品で初めてかしら)。しかし、劇中に「父子」に関する露骨な当てこすりをあるキャラクターがやらかし、「不在の父親」と「擬似父子」という物語は、この映画にも確実に影を落としている。

というのは、まあ、余談(ええ?)。実はあまり展開させようがない話なので。

父子、もしくは擬似父子を縦軸にしながら、最近のトニー映画を覆うのは何か。ハスミンは「人質交換」にトニーの手腕が冴え渡ると言う。しかし、「マイ・ボディガード」を思い出せば直ちに理解されるように、それはそのまま「命の交換」でもあった。

それは、ある意味単純化して「自己犠牲」の物語だと言ってしまえるかもしれない。しかし、それではたぶん、トニーの最近の映画の結末を覆う、甘美な、何物にも耐え難い感情の奔流を表現することはできない。それはたぶん、自分がたどり着く未来のその場所を、見ることができた人物たちの物語だ。

マイ・ボディガード」の、あの橋がどうしようもないくらい美しく悲しかったように、クリーシイが自分の生きている「意味」を見出したように(前半部のことではない)、ある瞬間から、この映画も「終着点」を登場人物たちに示す。

ドミノは自由に生きてきた。拘束された生活を、虚飾を嫌い、スリルを求めてバウンティ・ハンターになった。社会に馴染めない者たちが擬似家族をつくりあげ、好き勝手に生きていく。テレビ局が取材に入っても(ビバヒルのキャストが本人役で登場して爆笑)、それは変わらない(余談だけれど、クリストファー・ウォーケンの役の挙動不審さは意味不明ですごいぞ)。しかし、そんな「自由」を満喫してきた彼女らに、突然、道が指し示される。「マイ・ボディガード」のそれと違って、今回のそれはあまりに唐突で、しかも宗教じみている(トム・ウェイツが「預言者」として唐突に登場。すげーなー)。

これはリアルの物語ではない(だからこそ、ラストクレジットに映る「ドミノ」本人がたまらなく、かっこよく、美しく見える。彼女がいまこの世にはいないがゆえに)。ここにいたって、「ドミノ」は神話の様相を呈し始める。あるいはシェイクスピアでもいい。そういうたとえでしか語れない、登場人物たちの悲痛な決意と、容赦ない状況の進行が、そういうものを連想させるのだ。ドラマではなく、物語の力。そうあるべき結末を知って、それをがっつり納得して進んでいく人々を見ることで生まれるエモーション。ぼくはこの映画で3度泣いたといった。笑われるかもしれないけれど、それはどこか言ってしまおう。ひとつは、トム・ウェイツがドミノたちの「結末」を指し示す場面。そして金を持ってタワーの最上階に上っていく場面。そしてラストの台詞だ。

ぼくらは、ここにたどりつくためにこの物語を見てきた。そういうカタルシスと哀しみとが、「ドミノ」の「預言者」以降にはある(その前のラリって暴走するところは爆笑だけど)。

ポップで、暴力もいっぱいあって、映像も遊んでいて、不謹慎なギャグもたくさんあって。

けれど、最後にぼくらはそこへたどりつく。登場人物たちはたどりつくことを許される。それはとても残酷だけれども、同時に、この上ない幸福でもある。ある人はそれを癒しというのかもしれない。けれど、この結末を癒しというには残酷すぎる。

彼らがたどり着く場所。それは「赦し」なんじゃないだろうか。誰からの許しでもなく、神からの許しですらないけれど、それはそう呼ぶしかないものだ。交換と犠牲の果てに、その許しはある。「スパイ・ゲーム」もそうだ。それは親が子の身代わりとなって、あるいは愛する人の命の代償として、何かを、ときには自分の命を「交換物」として差し出す物語なのだ。

この「たどりつく」哀しさがある限り、ぼくはまだトニーの映画に付き合うだろう。そしてたぶん、この「ドミノ」はそれがいちばん露骨に(すくなくとも「マイ・ボディガード」程度には)表れている映画だと思う。

ポップで、ふざけてて、でもすこしビターな物語。これがなんでガラガラなのか、ぼくにはぜんぜんわからない。

あなたがロマンチストなら、この映画を気に入ると思う。ぼくらはみな死ぬと知っているロマンチストなら。

余談だけど、この映画、はっきりいってマイ・ボディガードよりもはるかに見やすいです。だって、画面がいくらガチャガチャしていてもドミノのナレーションが基本的にすべて語ってくれるんだもの。マイ・ボディガードamazonのorangeというムービーよりも、エフェクトをかける場面の使い分けが洗練されているので、問題なし。しかし、この人「橋」が本当に好きだよな〜(「エネミー・オブ・アメリカ」もそうだったけど)。