日常としてのジェノサイド

 数年前から、ずっと妄想してきたことがある。いま、核を扱う物語とはどのようになるのだろうか、と。核爆発によってニューヨークが、ロサンゼルスが壊滅し、ウン10万、ウン100万の人が死ぬ。それを防ぐために主人公たちが駆け回り、テロリストは政治的目標やあるいは個人的な復讐のために核による虐殺を完遂しようとする。それで物語は収まるものだろうか。

 冷戦が終わってからこのかた、ハリウッド映画で核爆発を何回見ただろうか。ジェームズ・キャメロンはいうまでもなく冷戦の子供としての物語を一貫して作りつづけてきた監督だ。ターミネーターは核戦争後からやってくる。エイリアン2で主人公たちにタイムリミットを切るのは核融合炉の臨界時間だ。アビスは核弾頭をめぐる物語であり、完全版によってその背景で「第二のキューバ危機」が進行していることがわかる。キャメロンは核と、それが象徴する冷戦的な巨大科学の破綻を一貫して描いてきた。

 しかし、そのキャメロンがキノコ雲を夫婦の愛情を確認するキスの背景として扱うというものすごいことをやったとき、なにか世界のタガが外れたような気がしたものだ。ミミ・レダーの「ピースメーカー」において核爆発は冒頭でいきなり炸裂し、クライマックスの座を与えられることはない。

 核は日常化する。核はこれからありふれた風景になるのだ、という予感。それがたぶん、ぼくが「トゥルーライズ」に感じた無気味さの正体だったのだ、と今はわかる。

 核爆発を防ぐ話が時代遅れで、ビビッドではない、という人は、たぶんその風景を予感できない人なのだろう。大きな物語はぜんぜん死んでいないのだ。アメリカでも、ロシアでもない、北朝鮮パキスタンのような国が、あるいはテロリストが核を爆発させたその日、確実に世界は変わる。核はその瞬間、神棚から降ろされ、通常兵器の座につくだろう。単に威力の強い爆弾として。

 ハリウッド映画の中で、映画どころかテレビドラマの中で、核が炸裂し炸裂し炸裂する時代が感じるべき「予感」。核の使用を防ぐために戦ってきた「メタルギア」シリーズも3作めにしてついに核が炸裂してしまった。しかも「ピースメーカー」と同じく物語の冒頭部でだ。

 ぼくがぼんやりと考えたのは、政治目標でも個人的怨恨でもなく、その「タガ」を外すために核を爆発させようとする悪役の存在だ。最初の一発を担う者として。核が見慣れた風景となり、大量死と汚染に「慣れた」世界を地上に出現せしめるために、核を爆発させようとするキャラクター。

 メタルギア3発売前にデイビー・クロケット核無反動砲について書いたとき、そのような小型核を生み出した思想についても触れた。爆撃機の時代が終わり、ICBMによる相互確証破壊の時代がやってくる直前、マクナマラは核を通常兵器として使用される世界を構想した。柔軟反応戦略というやつだ。かつて、アメリカはそのような世界を想像したことがあるのだ。核が歩兵に配備される世界を。

 柔軟反応戦略が継続していたら、世界はどのようになっていただろうか。大量死にすら日常として「慣れ」た人々が暮らす、別の価値観を持った世界になっていただろうか。あるいは米ソの核戦争が起こっていただろうか。

 それはわからない。だけど、核が日常と化す時代は別のかたちで、そこまできているのかもしれない。