今年観た映画の記憶

物凄い勢いで忘れている。自分が今年、何を観たのか。そんなに数を観ているわけではない。月にせいぜい5、6本がいいところ。それなのに思い出せない映画がたくさんある。悲しいことだ。

1:「ヴィタール」
「バレット・バレエ」から塚本晋也は変わった。分かりやすい無邪気さと暴力性はなりをひそめ、かわりにびくびくした映画を撮るようになった。それは一言で言って死が怖い映画であり、死に脅かされる人間たちの寂しさを扱った物語だ。「バレット・バレエ」からの塚本映画は、常に「終りの刻」を見据えながら、その虚無に怯えながら撮られているように思う。その怯えが発する匂いが、この映画をある意味で美しく、また悲しくしている。「六月の蛇(実はこちらのほうが好きなんだけど)」とこの映画。塚本がこのままこの方向で行くなら、ぼくはものすごく嬉しいのだけど、「やっぱり『鉄男』のほうが」という人の方が多いんだろうなあ、やっぱり。こんなきれいな映画にあまりお客が入っていないというのは悲しいことだ。
2:「マイ・ボディガード
この映画の結末は断じて、原作を台なしにした「ハッピーエンド」などではない。この映画はどん底に暗い。それこそトニーを怨みたくなるくらいに。「復讐によって生きる希望を得、愛する者を再獲得し、もりもり人間として回復してゆく」原作にくらべ、この映画は(回復期間をおいて、しかも訓練しなおす)原作とは違い、最初の傷も癒えぬまま、血を流しつつ歩いてゆく道としてあり、その当然の帰結としてあの美しい終幕がある。少女が無惨に犯され死んでいればそのほうが容赦ないのかというと、当然だがそんなことはないのだ。「神は俺たちを赦すと思うか?」「無理だな」そこから始まって、そこで終わる物語。ベッソンの「レオン」などではとうてい達することのできない「悲劇」を、トニーはあっさりと達成してしまった。これは、煉獄に留められた者が「地獄へ落ちること」を許可される物語なのだ。
3:「イノセンス
「CGが浮いている」と言いつつ、かといって多分「フツーの」背景ではもう満足できないだろう。そういう予感がものすごくある。あれほど緻密だった「スチームボーイ」や「ハウル」の背景美術に感じた退屈さが、それを証明している。いわば、「まだそちらに行くべきではなかったのに、踏み出してしまったために、過去の技法が退屈になり、しかしそれが採用した新たな技法はまだ成熟していない」というところ。
4:「ソドムの市」
この人にちゃんとお金を与えて映画を撮らせてあげたら、凄いものができると思います。
5:「殺人の追憶
ドロップキック。
圏外:「IZO」「マスター・アンド・コマンダー」「ミスティック・リバー」「パニッシャー「誰も知らない」
ロード・オブ・ザ・リング」は叙情ではなく叙事であるべきだった。ピーター・ジャクソンは神話をメロドラマにしてしまった。それはそれで正しいのだけど、もっと凄い映画ができるはずだった地点からのもっとも妥当な妥協としてしか、あの映画を評価できないところが辛い。それがとてつもない才能と情熱の産物だと知っているだけに。下の「キングダム・オブ・ヘブン」もそうだけど、リドリーは絶対に「架空の現場の段取り」を想定したカメラワークしかしない。ピーター・ウィアーもそうだろう。どうせフィジカル感を無視したカメラをやるのだったら、ゼメキスが「コンタクト」でやったような、地球から銀河系まで引いていっちゃいましたすいませんだってそれ出来るから、くらいのことをやらなきゃだめだ。

と並べてみてから、1〜3が愛するものとの距離の遠近を計る映画、近づくために払う代償についての映画であることに気がついた。今年はいろいろ辛かった。認めたくはないけれど、人生が映画の嗜好に露骨に干渉してきたようだ。

個人的には「アトミック・カフェ」とか「アレキサンダー大王」とか「戒厳令」とかが再上映されたのが嬉しかった。