「CASSHERN」ってなんだったのだろう

 自分が劇場で観たものはいったいなんだったのか。恐ろしく下手っぴいな映画を観た気もするし、恐ろしく愚直で正しい映画を観た気もする。よく憶えていない、というのが正直なところだけど、それを確認するためにもう一度観てみることにした。というわけでDVDを観る。

 サイゾー、のインタビューは言い訳でも何でも無くて、たんなる(制作前から覚悟していたことの)ぶっちゃけである、というのはロフトプラスワンで脚本家の佐藤大さんが言っていたことを考えるに、正しいと思う。脚本家チームが「ここは台詞で言わないほうがいい」「台詞で説明すると嫌がられる」「アクションで示した方が」と書いてきたものをすべてダメ出しして、全部言わせるように、とこの監督は逐一(「台詞で語らない」方向であるパートが書かれるたびに)ダメ出ししていったそうだ。そのほうがスマートな(そして常識的な、美しい)ラインであることをがっつり承知で、しかしそういう「普通の映画」としての方法を、この映画の監督はとことん嫌悪していた、というほかない。

CASSHERN」に対する否定意見を読んでいて、大体の部分では「そうだよな」とうなずきつつ、しかし心のどこかではなんか嫌な感じがしていたのだった。たとえばこの映画を「幼稚な主張」と斬りつつ、「マッハ!!!!!!!!」とかゾンビ映画とかいったのボンクラ系映画を誉めていたり(俺もそうだ)、大体、この映画の言っていることってそんな「幼稚」なのか?という気がしていたのだ。

 言いたいことをそのままストレートに言うこと、それはカンフーに憧れたりボンクラ引きこもりが救世主になったりする物語と同じところに根っこを持つ「中坊っぽさ」だったはずなんじゃないか?ゾンビ映画を観ること、カンフー映画を観ること、そういう「中坊っぽさ」はオッケーで、なんで「言いたいことをストレートに言っちゃった」中坊っぽさはダメなんだ?

 まあ、単純に言えば「かっこわるい」という理由になるのだろう。しかし、ある種のボンクラを認め(それは「映画秘宝」のボンクラぶりだ)、ある種のボンクラ(つまり、キャシャーンの青臭さ)を認めない、それは書き手がある種の「文脈」、映画を語るときのいやらしいスタンス、「サブカルチャーの殿堂」に列せられた「安全圏のボンクラぶり」で戯れることの(そう、たぶん「秘宝」的なものはある種のぬるま湯的なコミュニティ、所属することの安心を保証する防護壁になりつつあるのだ)、安心感を守り抜くための「選択」でしかないんじゃないか。

 だって、この映画は間違いなくボンクラ映画なのだもの。この映画の醜さは、ボンクラの妄想が持つ醜さであるはずなのだもの。それを心地よく見せてやれば「マトリックス」や「ファイト・クラブ」になり、醜く見せてしまうと「CASSHERN」になる。見返してみて、はじめてそのことに気がついた。それは遅すぎる認識なのだけど、たぶんあのときはぼくにも「ボンクラの選別」というスノッブ的で矮小な気取りがいささかなりともあったんだろう。だから「かっこ悪いボンクラ」であるこの映画を、ぼくは「通常の判断」を下して、多くの観客と同じく「ダメ出し」をしてしまったのだろう。

 カッコ悪いものはカッコ悪い、カッコよくない映画は罪悪だ、と、それはまったく正しい。だが、遺憾極まることに現実世界の俺はまったくカッコ悪い。醜い。生まれてすみません。写真家でウタダの旦那でいらっしゃるキリキリはまったくもってカッコいいスカした勝ち組であろうとは重々承知しているけれど、少なくとも映画監督という局面に限っては恐ろしくカッコ悪いボンクラだ。

 ようするに、この映画に対して感じたものは、そのまま自分(文字どおりの自分。あなたがどうかは知らない)が有する醜さ、カッコ悪さだったんじゃないか。だから下手なものをわざわざ下手だと解りきっていることを書いて否定しなきゃならなかったんじゃないか。だってよくよく考えたら、この映画、ぜんぜん反戦映画の態をなしていないんだもの。皆が戦争はよくないね、愛が大切だね、命は大切だね、っていいながら、そのおおまかな正しさのなかのディテールの違いがものすごいことになってしまって、その主張そのものが戦争になってしまって、だれも止められません、もうズブズブですわ、って話なんだもん。これがどうしたら「戦争はよくないね」って話だと受け取れるのかしら。言いたいことを言っているだけ、そうだろうか。「テーマを台詞で語ってる」そうか?いろんな人物にその「テーマ」を語らせた結果、それぞれは監督と言う1人の人間から思考されたものであるにもかかわらず、おたがいにコンフリクトしてテーマそのものは崩壊してるじゃん。登場人物は(悪役ですら)それぞれが微妙にまっとうなことを語りつつ、でもやっぱダメですわ、そういう話じゃん。「言いたいこと」が破綻してく話じゃん。「戦争は良く無い」そんな一言でぜんぜん回収できてない話じゃん。

 というわけで、やっぱこの映画はダメなのだ。ダメなのだけれども、そのダメさを語ることはそのまま自分の中坊的ダメさをさらけだすことにすぎず、このダメさをダメだと処理しているというのはある種の逃避にすぎないのだと思う。オタクでない人がこの映画を観て「ダメだ」というのはよくわかる。ていうかそうすべきだ。だけど、オタクが「キャシャーン」を否定する場合、それはぼくにはどうしてもある種の無自覚な自己言及にしか見えない。キャシャーンのダメさは、ぼくのダメさだ。そしてそれがどうあがいても肯定できるものではないと知っているゆえ、同時にまた、キャシャーンも肯定できないし、やっぱりダメなのだ。

 愛すべき、決別すべきダメ風景。キャシャーンをきっぱりと否定することのできるオタクは、強いオタクであり、自己愛、醜いナルシシズムから決別できた人なのだと思う。そうでなければ、無自覚であるか、のどちらかだ。

 俺はまだそこまで行ってない。がんばる。がんばるよ母ちゃん。