阿部和重「映画覚書 vol.1」

阿部和重の「映画覚書」を読んでいると、やはりハスミンの我侭ジジイぶりが素晴らしく、映画狂人@元総長にはこのままつっ走っていってほしいものだなあ、と思ったりする。

 このハスミンと阿部和重の対談を読んでいると、若いはずの阿部和重の語り口が、どうにも古臭いものに見えてしまうという点が不思議だったりする。なぜなのかな、と考えてみたのだけど、要するにハスミンは「トム・クルーズの顔がいい」だの「ケイト・ブランシェットはいい」だの「あの女優でファム・ファタールはねえだろう」だの、要するにきれいだとかきれいじゃないいいとか悪いとか、そういう話ばっかりしている姿が清々しく、一種淀長状態と言ってもいいんだけど、それに対する阿部和重の言説が80年代的な知性の在り方、というか呪いのようなものから抜けだせないでいる泥臭さを引きずっているから、というふうに見えてしまうのだ。なにせ「ラスト・サムライはいい。どうしてかというとトム・クルーズが無条件に好きだからだ」とのっけから映画狂人に突っ走られては(また、このおっさんは別のところでこの映画を貶したりしているからたまらない)、ほとんどの人間は打つ手がないだろう。圧倒的な先制攻撃、という様相を帯びたハスミンの言説は、現在の「政治的正しさ」とヘイズ・コードを併置させたり、あるいは「サイン」について構造から語ってしまったりする阿部和重の語りをえらくアナクロなものに思わせてしまう「ズルさ」を持っている。そして、そうしたハスミンの「ズルさ」は圧倒的に有効だ、と思うのだ、この本を読んでいると。

 「構造」を語ること、それ自体ではなくそれの周囲との関係性によってむき出しになる構造によって一遍の批評を構築すること。そうした語り方こそ『ロスト・イン・アメリカ』で安井豊が指摘した『キャメロンの時代』のシネマの在り方ではなかったのかしら。それともそのような視線は映画には適用されても批評には適用されないとでも思っているのかしら。「A.Iは捨て子の物語だ」そうしたマニフェストがなんだかうまく機能していないように見える語りのいかがわしさ。それはいったい何だろう。

 それは「映画を語る」という行為自体に「恥」を感じているかどうか、の表れなんじゃないかしら。蓮實重彦はあきらかにその「恥」を有している。実は中原昌也も有しているかも知れない。しかしたぶん、阿部和重にはその「恥」はない。ただ、「恥」を引き受けた上で語るための戦略、というものがあると思うのだ。けれど、阿部和重には、そしてたぶん「ロスト・イン・アメリカ」の出席者の大半は(たぶん黒沢清塩田明彦を除いて)、その恥を感じる才能と、それを自覚した上でとる戦略、のふたつが欠けているんじゃないかしら、と思う。

 とはいえ、別にその「恥知らず」であることから生まれるいかがわしさだって、じゅうぶん面白いわけだし、ほとんどの人は(ぼくを含め)映画をそのようにしか語れない。自分自身、映画をそのような恥知らずでうさん臭いものとしてしか語るすべを持てない。

 だから、やはり映画狂人はすっとばし過ぎで、単にこのおっさんのリミッター解除っぷりを前にして、阿部和重の語りが退屈だ、というのはフェアではないかもしれない。「いつかトニー・スコット論を書きたい」「ぼくは今、トニー・スコットを誉めようという運動を世界的に立ち上げようとしているんですが」とかのたまうような暴走ぶりにどう立ち向かえというのか。いや、私も前々からトニーはいい、と思ってたんですが、それにしてもここまで言う勇気はなかった。なんだか映画ファンとしては言ってはいけない、恥ずかしいことのような気がしてた。しかしやっぱりハスミンは違う。リドリーはダメだ、トニーはいい、と断言する。すごい清々しい。漢らしい。

 まあ、なにが言いたいか、というと、このおっさんにはもっともっと暴走してもらいたい、ということなんですが。

 というわけで、「マイ・ボディガード」が観たいなあ、と(なんのこっちゃ)。