ファン=メーヘレンと時代



病院にいると、テレビの他に見るモノもないのでだらだらとVAIOワンセグを眺めていたら、「フェルメールの暗号」というフェルメール展合せの番組がTBSでやっていて、内容はまあ、ナチとかファン・メーヘレンの贋作とかそういうネタで持たせていたのだれど、そこでふと思い立ってファン・メーヘレンの描いた「フェルメール」ってどんなもんだったのかぐぐってみてちょっと驚いたのは、

パチモン感ばっちり

ということで、何で当時の人々がこれに騙されたのかがよくわからない。知ってて見てるからそう見えるだけじゃねーかと思う人は洋Googleでhan van meegerenをイメージ検索してみるといい。それはどうあがいても「フェルメールにほどよく似た別の何か」にしか見えないはずだ(って、誰かが同じことを書いていた気がするんだが思い出せん)。

これは要するに、フェルメールフェルメールっぽさ、というコードがあって、それは時代ごとに異なるのではないか、ということだ。我々の審美眼も我々の時代から逃れることは当然不可能だ。あの時代、人々がフェルメールだと思ったコードから、我々は解放され、恐らく別の「フェルメールっぽさ」のコードに囚われているのだろう。

で、なぜわたしが病院にいるかというと

隠すのもいろいろと面倒くさくなってきたので書いてしまうと、最近はてなの更新が薄味なのは(自覚しております)、私が現在、例の病気の再々発と五月あたりから戦っているからなのである。会社を一年休むと決めて、日常のほとんどを病棟のベッド周辺二メートルで過ごしているわけです。転移は頭から足まで六カ所ほどあり、抗癌剤で抑制しつつ放射線を連日浴びせるという生活が続いています。六カ所転移というと結構びびりますが、医者が楽天的なので、まあ、希望を持っていいのでしょう。

ときおり(四週に一週くらい)は外に出ることができるのですが、その間に見られる映画をどがっと見ているわけで、そういうやり方をするとここに感想を書く気も萎えてしまい、なので最近映画評が少ないわけです。最後に見たのは「落下の王国」「アイアンマン」「敵こそ、我が友」あたり。

これ何が辛いって抗癌剤の副作用とか吐き気とかじゃなくて、小説を書くのに障害が出ること。入院前は「時間だけはたっぷりあるし、量産できるかな」と思っていたら大間違い。資料だけあっても、小説というのは書けないんですね。自分の書物に埋め尽くされた部屋で、好きなときに好きな本を本棚や床の上から引っ張ってこられるような環境じゃないと何も浮かばない。まっしろ。取りあえず次の作品はめでたく最終チェックに辿り着きましたが、それもほとんどは五月に病状が発覚する前におおかた仕上げていたから可能だったのであって、いくら時間があっても病院ではエッセイとかならともかく小説は一文も進まない。

なので、社会人としても、新人物書きとしても、ブログ書きとしても一日も早く自分の部屋に戻って安心したいものです。