歩くぞ、これ。

というわけで、GDHの行く末を見定めるというただそれだけのために「銀色の髪のアギト」を見てきた俺が来ましたよ。

アニメ映画、というのは「すべてがデザインされた映画」だからして、この「アニメ」映画に何が欠けているかというと、デザイン、様式の欠如なのだった。劇場アニメは特にそうだが、それぞれの作品は固有の様式を煮詰めた結果現出したディテールの集積によって、見せ場をつくっているものだ。「ナウシカ」のメビウス風なタッチだったり、「ラピュタ」のスチームパンク(ではないんだけど、厳密には)風だったり、特に最近の宮崎映画は「千尋」の擬洋風建築や「ハウル」のロココの、グロテスクなバロック化であったり、その様式において、ある種の過剰さを孕んでいるものだ。そうした「様式による一点突破」をメインアームにしているのが押井守であり、「Ghost in the shell」の水没香港都市だったり、「イノセンス」のチャイニーズゴシックだったり、「パトレイバー」の路上観察学風味(トマソン、看板建築など、赤瀬川/藤森照信ラインの引用)だったりするわけだが、いわゆるメインストリームのアニメというのは、背景美術やそれに類するものにおいて、観客をグリップする要素を必ず持っていると言える。

それは完全に仮構されたフィクションの世界である場合もあるし、「パトレイバー」のように、いま、ここにある現実の町並みの(通常は見向きされない)ディテールを異様に拡大することで、風景を異化する方法である場合もある(その延長線上にあるのが、庵野秀明の「トップを〜」や「エヴァ〜」であり、さらにその後に来る新海誠の「ほしのこえ」であったりする)。今敏の「東京ゴッドファーザーズ」における背景美術も、基本的にはそのラインにあると言えるだろう。今敏自身がどこかで言っていたけれど、フィルムの風格というのは基本的に美術による、と。

さて、この「銀色の髪のアギト」だが、見事なまでになんにもない。すごいぞ。どこにもこの映画、ひっかからないからな。様式で突出しているものがどこにもない。背景自体はむしろ(それなりに金がかかっているのもあって)クオリティの高い部類に入ると思うのだけれども、何を描くか、という根本的なところで壮烈に凡庸であるために、背景を見てもまるで楽しくない。普通なのだ。ものすごい普通なのだ。

普通じゃないものを見るために、我々観客は映画館に来ているのであって、こんなに想像力のないものを見るために金を払っているのではない。異様なもの。異様な状況。それを見るために我々はあの暗闇に足を運んでいるはずだ。しかし、この映画の世界は、まるっきり我々の想像力の範囲内に留まっていて、過剰さを見せる瞬間が一瞬足りともない。

もっとも、それはGONZOという制作集団の特徴でもあって、この人たちの作品で突出して過剰なものがあったためしは、一瞬たりとも、ない。GONZOというのは過剰なものを抑制するフィルタでもあるのか、「アレが凄かった」と言える要素をまるで持たない、ある意味異様な凡庸さを絶えず纏って作品をつくりつづけてきた。

これは何もマニアの難くせではなく、思えば、アニメというのはその様式の異様さによって語られることでブランディングされ、売られ、人々の話題にのぼってきた、という歴史がある。それが一言で語られる「ウリ」となるわけだ。「イノセンス」であれば「中国風の背景が凄かったね〜」だろうし、「トトロ」で言えば「なつかしい田舎っていいよね〜」ででもいいだろう。

しかし、GONZOという集団には、そうした「一言で言える作品のウリ」が皆無なのだ。いや、企画書にはあったのかもしれんが、少なくとも完成した映画にはそれが脱臭したかのように、きれいさっぱりなくなっている。これはアニメの在り方としてはけっこう異様なことであり、しかし、その異様な「凡庸さ」がそれはそれで面白いかと言うと、まったくそんなことはなく、単に凡庸なのでするすると人々の思い出からすり抜けてしまって、家で見るビデオや地上波ならそれでもまあ、いいかもしれんが(しかし志低いよな〜)、年に数度しか映画館に足を運ばない観客にとっては、面白いつまらないというのを別にして、「映画を見た」という実感をお土産に持って帰ってもらわないと「年に数回の」イベントとしては失敗なわけで、このGONZOの「異様な凡庸さ」というのは、つまるところ映画館において最大の惨禍をもたらすよう運命付けられているのだった。

というわけで、過剰さの欠如というのは、映画にとって致命的なのだ。その2時間、なにもなかったことになるからだ。「デビルマン」ならその不快さをよすがに語ることもできるだろう。「キャシャーン」だって「背景がキレイだった」くらいのことは言えるはずだ。なぜなら、クオリティは別にして、そこには「様式」があったからだ。けれど、この映画には様式がない。異様なディテールの拡大もない。「岩じゃん」「森じゃん」「集落じゃん」「市場じゃん」それだけだ。岩場とか森とか市場とか、そういう単語をダイレクトに描いただけのような背景が延々と展開し、どんな岩でありどんな森でありどんな集落である、というデザインがすっぽり抜けている。

この映画、すごい。どこがどうひどい、とはっきり言えない、なんともタチが悪いつまらなさを抱えている(そしてそれは、いままでのGONZOの作品すべてが抱えているつまらなさでもある)。要するに、「単に凡庸」なのだ。あらゆる要素が凡庸で、「デビルマン」級にわかりやすくひどいわけでもない。フラットなのだ。「スチームボーイ」のときもそんな感想を描いた気がするけれど、今思い返せば、あれだって「スチームパンクいいな〜」ぐらいのことは言えた。しかしこの「銀色の髪のアギト」は、ものすごいくらい何もない。心にいかなるさざめきもたたない。退屈さえも。これはものすごく恐ろしいことだ。この映画は「度を越えてつまらない」というネタにすらしてもらえないのだ。

これにくらべれば、つまらない映画、わからない映画、不快な映画、というのはまだ「映画」であると、ぼくは思う。そこでは何か事件が起こっているからだ。GONZOの作品を見ていて、いつも思うのは「この人たち、何が面白くてこの作品をつくろうと思ったのかな」ということだ。金儲けでも、美少女のエロでも、箱庭の構築でも、原作のリスペクトでも、原作の破壊でも、なんでもいい。「青の6号」からこのかた、あらゆる種類の欲望を、ぼくはGONZOのどの作品にも見つけられないでいるのだ。


ネタバレ余談:
この映画、時代遅れでもあります。いや、異様に80年代臭い設定のせいではなく、キャシャーンスチームボーイハウル、と「○○が歩く」映画群がとっくに過ぎ去ったあとで、火山を歩かせてみたところで(しかも意味無し)、周回遅れランナーの悲しさが醸し出されるだけです。