劇場版ワンピース〜オマツリ男爵と秘密の島

「なんかこれ、すげー怖いんだけど」

 と隣の席の少年は言った。それは具体的には劇中のある箇所の描写に関してなんだが、そこ以外でも劇場は後半、分厚い沈黙に包まれ、子供達は押し黙っていた。退屈していたのなら雑談が聴こえはじめるはずだ(他の映画でそういう経験をしている)。しかし子供達は押し黙っていた。

 この映画をどんな層がどんな楽しみを求めて劇場に来ているか、ぼくは知らない。漫画はさすがに読んでいないということはないけれど、ときどき眺める程度でキャラをある程度知っているにすぎない。だから、キャラへの(事前の)思い入れもまったくないし、かくあるべし物語の方向性もない。

 そういう人間にとって、この映画ははっきり言って驚いた。

「これはワンピースではない」とか「こんなものを観客はワンピースに求めていない」とかいう物言いは、押井のBDやパト2の劇場公開時にさんざん言われたことでもある。10年一日のごとし。いまそれらの映画が「うる星」というコンテンツよりも「パトレイバー」というコンテンツよりも強靱に「映画として」生き残ってその存在をゴリゴリに主張していることを思えば、結局映画は映画として生き残ったり忘れ去られたりするしかない、という真実を語るまでもないだろう。作り手が「映画」に忠実であるしか、映画が生き残る道はないのだ。それでもなお、これを「ワンピースとしては」などという保留をつけるものがいるのなら、そいつは映画の敵であり、自分はワンピースの熱心な消費者でなかったことを素直に喜ぼうと思う。

 とにかく嫌な映画なのだ。嫌、というか、「嫌な予感」が全編を覆っていると言うか。その「嫌な予感」の正体はいわゆる「後半」になって明らかになる。なぜそれが「予感」だったか。それは、その到来する世界が現実の我々にとっても「予感」としてのみ接しうる世界であるからだ。我々はそれを予感としてしか経験できない。

 冒頭の飛行機雲を模した「パッション」もどきの航跡から、それはすでに漂いはじめている。ここまで書いたんだから、もう言ってしまってもいいだろう。それは彼岸の予感だ。この映画を覆うのは死者の風景だ。後半で突然転調しているかのように見えるこの映画も、しかし前半部からしっかり死の匂いをあちらこちらに貼付けて、それを観客に気取られないように動画は動き回り、巨大な物体はその巨大さをゴリゴリレイアウトで主張し、と煙幕を張りまくって覆い隠す。

 前半部でのどこか空虚な明るさは、まさしく後半の展開を支えるための空虚さなのだが、それはそれで充分楽しい。距離感やスケール感を適確に表現する画面構成が、その「楽しさ」にぐんぐん機能していくさまは見ていてほんとうに楽しい。その画面構成力が、後半部に登場するオブジェを見せるツールとして使われるとき、この映画はその正体をあらわす。それはまさに「予感」としてぼくらの人生に漂う、漠然とした「死」のひろがりを描くことだ。

 後半でこの映画は「死」の風景から始まっていたのだということがわかる。「仲間」という言葉が劇中幾度も登場し、あたかもその関係性の取り結び方についてのある解答を指し示してるかのようにみえるこの映画。しかし、オマツリ男爵の場合、「仲間」という関係性は破綻したのではなかった。それはある種理不尽に奪い去られたものだった。脚本上ははっきり混乱しているのだけれど、伯爵が主人公であるルフィたちの関係性を破綻に導こうとする欲望と、彼の関係性を永遠に固定しようとする欲望は一致しない。なにせ、彼の仲間は奪い去られたのであって、オマツリ男爵自身は仲間と破綻したことなど一度もないのだから。彼は関係の破綻を経験していない。奪い去られたそれを、取り戻し、永遠に維持する。それがこの映画の悪役の欲望だ。

 この映画に登場する、色褪せた写真にノスタルジーが与えられていないのも、そのためだ。それはまさにオマツリ男爵の関係性が永遠に固定された風景なのだ。完全に静的で変わることのない関係性が永遠に続く世界、それはまさに死の世界だ。この映画の「島」は彼岸として有り、あの写真はそれを指し示す自己言及のつぶやきなのだ。

「新しい仲間をつくってもいいんだよ」

 かつての仲間はオマツリ男爵にそういう。死んだ仲間が、だ。もちろん、そうだ。人間は愛するものの死を乗り越えて生きて行く。それが前向きな正しい物語の在り方というやつだ。しかし、それが同時に残酷であることをオマツリ男爵は知っていた。前向きであることが同時にどんなに残酷であるかを。それに全力で抗って、たどりついたグロテスクな地平。それを否定する力は、この物語にはない。

 一方、この物語を終えたルフィーたちが帰って行くのはどこだろうか。関係性は固定し、はじまりも終りもなく、死の予感をはく奪され、それゆえ逆説的に永遠の倦怠すなわち死を蔓延させる「ワンピース」という、いや、すべてのキャラクターコンテンツ、の中へ帰って行くに過ぎないんじゃないか。

「なんかこれ、すげー怖いんだけど」

 と隣の少年が言った。ぼくもとても怖かった。きみもいつか、自分が、他人が死ぬということを予感として常に抱えつつ生きなければならない、そんなことを意識してしまう日がくるだろう。だからぼくは、この映画がとってもこわいんだ。「斬られたのに死んでいない」彼を見ていて、ぼくはいつのまにか泣いていた。