ドクトル・マブゼと映画恐怖省presents「ああっ、映画の魔がやってくる!高橋洋vs小中千昭トークライブ」in ロフトプラスワン

 金曜2400時からなので2300時まで職場でねばる。その間に職場の人間がボージョレを買ってきたので思わずお相伴にあずかってしまう。やべえ、アルコール入れて今夜一晩起きていられるのか、と思いつつ新宿。そのまま歌舞伎町へ直行、ではなくひとりジェニファー・ジェイソン・リー祭りを決行すべく新宿ツタヤへ行く。

 とりあえず第一弾として「初体験リッジモンド・ハイ」「グレート・ウォリアーズ」「地獄のシスター」を予定していたが、どれも見つからず、若くてかわいらしい店員の女性に「すいません、『初体験・リッジモンド・ハイ』ってどのへんですか」と恥ずかしい質問をする羽目になる。なぜこの3本なのかはボンクラ映画ファンなら皆知っている筈だから訊かないでくれ頼む。

 結局「地獄のシスター」はなかった。シット。

 というわけで、これで思う存分ジェニファーはぁはぁだぜ、ポケモンゲットだぜ、と心の中で呟きつつ歌舞伎町はロフトプラズワンに到着。

 というわけであたりさわりのなさそな部分を。

 前半戦というか全体の3/2は高橋洋さんと小中千昭さんに加えて、もはやサウザンドミリオンディレクターである清水崇さんが飛び入りで参加。高橋さんは清水さんからハリウッドのドロドロしたパワーゲーム体験談を聞きたがっている(というかそういう自分の『地獄のハリウッド』妄想を事実として聞きたがっている、という風情で爆笑した)のだけど、確かにいろいろ苦労はあったけどべつにそういう話はないし普通でした、とのこと。サム・ライミは本当にいい人だと言ってたのが印象的。サムのおかげであまりよくわかってないのに口を出したがる連中からずいぶん守ってもらったみたい。みなさん、サム・ライミはいい人だそうです(外見からしていい人オーラが漂ってますが)。

「The Gruge」の音楽はクリストファー・ヤングなんですが、私このひと、そういう(B級サスペンスやホラー)映画が多いので「やりたい作品がやれず地味に苦労している人なのかなあ」と勝手に思っていたのですが、清水さんがヤングの家に行くとドクロとかその手のゴスアイテムやDVDがびっしり。本当にそういうのが好きな人らしいです。

 いままでも各所で繰り返し語られているとおり、小中さんも高橋さんも、自分自身の「怖かった」記憶をネタにしている、というかその体験をなんとか画面に結実させようとしている、という欲望で作品を作っている。実際に見たものを描く、という話。ただ、その処理が高橋さんは自分の妄想を映画として「信じて」いく作家であるのに対して、小中さんは「クールな」タイプ。金縛り体験について「睡眠障害と解ってはいるんだけど、でも怖いんです」と小中さんは語る。むろん、この話は恐怖というものの絶対性というか、「理性で解っていても怖いもんは怖い」ということを伝えたかったのだろうけど、「睡眠障害だとわかっていても」という前置きそれ自体に、やはり小中さんの脚本家としての理性、ある意味で誠実な態度を感じる。高橋さんの妄想力、妄想に忠実であること、は、それはまた別の意味でとても誠実であり、ぼくはどちらかというとそちらの方が魅力的なのだけど、それは関係ない話なのでまたいずれ。

「映画の魔」でも触れられている「セブン」の「本気じゃない」話(セブンよりコピーキャットだろう、ていうアレ)に絡むのだけど高橋さんが、世の中には「(あなた)なんかあっただろう系」の映画と「なにもありませんでした系」の映画がある、という話をしていた。ぼくはその作家が(人生において)逃れ難い呪いのようなものを体験しているか、という話しだと受け取ったのだけれども、そこで高橋さんいわく「俺はやっぱ、ポランスキーの映画が好きなんだよ」と言って(不謹慎だが)会場爆笑。じゃあ(我々のような何も体験していない、全共闘にも乗り遅れた世代に)「何かあった」ような呪いを受けた映画を作れるのか、という小中さんの問いに、高橋さんは戦時中の「呪われたUボート」の話を出す。波にさらわれたとか、戦闘以外の出来事で乗員が死んでいく呪われたUボート。戦場という死が遍在するはずの場所でも、怪談は、妄想は、ファンタジーは発生する。その話を知ったとき高橋さんは妄想の可能性に勝機を見い出したのだ、と。

 後半は中原翔子さんも登場。「ソドム〜」メイキングとともに特撮担当でアニメーション作家の新谷尚之さんが秘蔵ビデオを見せてくれるが、なんといってもびっくりしたレアビデオが「空手道」。空手家浅井哲彦氏(日本空手松涛会主席師範、だそうな)のビデオで、型の紹介とか、演武とか、浅井哲彦氏へのインタビューで構成されたビデオなのだけれど、監督が鈴木清順。なぜに清順。しかもスタッフが原田芳雄さん(ナレーションしてた)と大和屋叡子(大和屋竺の奥さん)さん。謎だ。

 内容は本当にどうということないフツーの空手ビデオに見え、これっぽちも映画的であったりはしないのだけど、何せ監督が清順なので、赤いカーテンの背景をバックにシルエットで演舞する空手家、という映像などは、これが清順でなかったらスルーされていただろうけど、なにせ赤バックにシルエットで演武なので(笑)、ステージから「これ、美術は木村威夫か?」などというギャグが飛び出す。インタビューでは清順さんみずから浅井哲彦さんと対談。ブルース・リーとかジャッキー・チェンと浅井氏が会った話をする。「リー・シャオロン」「ゴールデン・ハーベスト」などとという単語が自然に浅井氏から飛び出し、微妙に詳し気味なのが爆笑。

 という感じで5時すぎに終了。今からジェニファー祭りに入ります。まずは「リッジモンド・ハイ」からだな。フィビーよりジェニファーのほうが絶対に可愛いと思うんだが、どうか。

もののけ姫

 DVDは持っているのだけれど、前述の理由で会社から出る2300時までだらだらと観ていた。

 宮崎作品でこれがいちばん好きだ。傑作だと思う。

「トトロ」はあまり好きではない。というか嫌いだ。ああいう風景は小岩で生まれて江戸川を眺めて育ち、千葉北西部のスプロール、東京に通う会社人が寝るために買った新興住宅地で育った自分には、憧れようがないあらかじめ喪われた風景だからだ。あの映画に出てくる背景の、物語の、どこにも自分は惹かれようがないし、それに惹かれることがあたかも「正しい」と言われているような映画のたたずまいには正直「貴様に憧れの対象を指し示される謂れはない」と文句のひとつも言いたくなる。

ナウシカ、は今見るとたまらないやるせなさを憶える(だからこそ漫画の方は映画でやらかしたことを周到に回避し、回避はしたものの逡巡しまくり、だからこそ傑作になったのだけど)。大ババ様の「なんといういたわりと友愛じゃ」なんていう台詞はとてもじゃないけど聞いていられない。恥ずかしいのではない。陳腐なのではない。やるせないのだ。自分でも嘘だと解っているその言葉を、しかし観客に「終りの言葉」として「しれっと」言わなければならない、そんな嘘がたまらなく辛いのだ。そのやるせなさは耳を塞ぎたくなるほどで、正気の人間が真顔で画面と正対しながら聞ける台詞ではない。

とかまあいろいろある。かといって世間に背を向けた(としか思えない)「カリ城」を傑作と言う気にはとてもならない。

もののけ姫」はそんな宮崎作品の中にあって、唯一宮崎駿がヤバいところまで行った「狂気」に限り無く近いものが、ある種の逡巡と傲慢さが同居した結果落とし所がまったく不明なまま物語が暴走する、「手に汗握る絶望」が全編を覆っている凄い作品だと思う。会社で一緒に話していた人は、漫画のナウシカを映画にしたらこんなふうになるんじゃないか、と言っていた。

宮崎駿が唯一、絶望をはっきりと指し示した作品。宮崎駿が真摯であろうとした結果、まったく答えを指し示せないまま終わらせてしまった作品。この映画と「紅の豚」が、ぼくは宮崎作品の中でいちばん好きだ。

 これを見ると、エヴァって物凄い勢いで古びているのがわかる。劇エヴァを観ているあいだ、ずっと感じていた退屈さ。見え見えの落とし所に、すべてがきれいに収まっていく退屈さ。映画はこんな退屈さをフィルムに焼きつけるものではなかったはずだ。少なくとも、その種の退屈さは「もののけ」にはなかった。今ならわかる。なぜエヴァが退屈だったか。それは「常識」を延々と2時間かけて説教されただけだったからだ。一方、もののけが退屈でなかったのは、それが全然説教になっていなかったからだ。

 たぶんエヴァの悲劇、エヴァの弱さというのは、は巨大綾波を観て「うははは、でかすぎだろそれ!」と笑ってくれる観客があまりにも少なかったことにあるのじゃないか。あれが公開された夏を思い出すに、そんな気がする。

やられた〜!

ツタヤで店員に見つけてもらった「グレート・ウォリアーズ」、バーホーのじゃなくてクリストファー・ランバートとかマックス・フォン・シドーとかが出てる「DRUIDS」のほうでやんの!ガリア戦記でやんの!ジェニファーのジェの字もねえ!ヌードもねえ(あ、自分で言っちゃった)!


というわけで、ジャニファーを拝めたのは「初体験リッジモンド・ハイ」だけでした・・・てか。これ、脚本がキャメロン・クロウでやんの!うお〜ジェニファーかわいいなあ。童顔だなあ。「イグジステンズ」のとき年齢調べてびっくらこいた記憶が懐かしい。

ジャッジ・ラインホールドが出てるとなんか和む。あと、存在自体が暴力装置であり、ゆえにあの「アイ・アム・サム」にすらうっすらと殺気が漂っていたショーン・ペンが和みキャラで殺気がまるでないのが逆に怖い。