バイオハザード2:アポカリプス

 1作目は、じつはけっこうまじめに80年代ホラー映画しようとしていたと思うのです。エレベータで首ちょん切れる、とか、レーザーで細切れ、とかそういうあたり。「ゾンビ」を評して「ホラーとアクションの野合」と黒沢清は言っておりましたが、アクションとホラーが無節操に結婚しはじめた80年代の匂い、というかぶっちゃけジョンカペの系譜というやつですか。最後の地下施設から列車で脱出、というシチュエーションが妙に「ゴースト・オブ・マーズ」とかぶったのはこじつけではなく、なんちゅうか「ああ、そういうもんだよな」というある種の文脈における納得があったわけです。実はポール・アンダーソン、微妙に好きなんだよな、俺。フィオナ・アップルのダンナのポール・アンダーソンとどっちが好きかといわれたら「ソルジャー」のアンダーソンだ。「イベント・ホライゾン」、好きなんですよ、すごく。なんか成功したアルバート・ピュンという感じがすごくする。俺にとって(アルバート・ピュンって誰?というひとはググるように)。

 とはいえ、この「2」ではポール・アンダーソンはメガホンをとっていない。アンダーソンは脚本だけだ。というわけで映画の性質も大分変わった。

 どう変わったかと言うと、ポール・アンダーソンとは別の方向での通俗、というか何も考えていない感じ、を全編にまとっている感じ、というか。

 前作では80年代ホラー映画のテイストを参照していたんだけど、今作はそういうの一切なしの、純粋なアクション映画になっちゃって、それはこの監督がゾンビをまともに撮る気がないことからも明らかだったりする。この映画におけるゾンビ描写はあまりにズサンで、たとえばゾンビが主人公たちに襲いかかる場面などは、撮影した後にあまりに素材がズサンだったことに気が付いたのか、ブレブレのコマ抜き編集かましてなにが映ってるんだかよーわからん、という状態。

 私はゾンビ自体にはあまり思い入れはないのですけど、それでもここまでゾンビ描写が(映画的に)いいかげんだと、うーむ、と唸りたくもなってきます。

 で。ゾンビ映画であることをやめてしまったこの映画が、次に何を選びとったのか、というと、先ほど「純粋なアクション映画」と書いたことも関わってくるのですが、超人ヒーロー映画だったりするのです。それも、実に日本的な。

 この映画はとにかく、ミラ・ジョボビッチをいかに超人的なヒーローとして、フリークスとしてのヒーローとして描くか、ということに腐心していて、ほとんどそれだけの映画だと言ってもよろしい。ラクーン市で市街戦、ということでゲーム的には「2」を参照しているのかもしれんですが、しかしここまでやるならタイトルも「バイオハザードResident Evil)」ではなく「アリス」とか「プロスペロ」とかしたほうがいいのかもしれん、てくらい「フリークスとして」超人化したミラジョボが大活躍、という映画になっております。

 製作陣が構造的にヒーロー映画であることを積極的に選んだのは、脚本からも明らかで、この映画ではネメシスとミラジョボを「光と影」の対として生まれた改造人間として位置づけ、念押しに最後にガチで対決、というイベントを用意しているという王道っぷり。このヒーロー2者の世界においては確かにゾンビの居場所はないわけです。それにしてもゾンビの撮り方は手抜きというよりは単に下手、という感じで感心しませんが。

 一通り物語が終わって、エピローグに現れるミラジョボの姿を見て、この映画がなんであるか、この映画に感じていた既視感の正体がはっきりとわかりました。「エイリアン4」。ジュネの。ヒトならざる者の物語。基本的に「1」より下手っっぴいで、恥ずかしい演出がてんこもりのこの映画ですが、「エイリアン4」で人間であることをやめてしまったリプリーの、ヒトという種族を見つめる視線の冷たさと皮肉な笑みを魅力的と感じられた観客になら、そこそこに美しい映画ではあるでしょう。カットはせわしなく節操なく、シーンの転換にはオーバーラップやCGによるエフェクトを使わねば気が済まず、カメラのドリーは早回し編集でちゃかちゃかすっとばさずにはいられず、と軽薄で下品で画面が見づらい、あまりほめられたものではありませんが、ミラジョボがとにかくヒーローとしてかっこいいので、最後まで見れてしまう映画です。

 と思ったら、この映画91分しかないじゃん。軽薄であるけれど、タイトな映画だったんだなあ。こういう軽薄な活劇が気軽に毎週見れるような状況というのが望ましいんだけど。

 ちなみに、ホンマモンのミラジョボがすげえ巨大でゴツかったのでびっくらしました。映画ではそんな大きくは見えないのになあ。そのゴツさを別にすれば、なんつーか、いろいろかわいい冗談を言っていて通訳の時間差で冷える、みたいな舞台挨拶でした。キュートな感じの女性。